ミラノから車で約1時間。アルプスの峰々を映す風光明媚なコモ湖のほとり、モルトラージオに、世界中のホテリエが羨望の眼差しを注ぐホテルがあります。それがここ、パッサラクア(Passalacqua)です。2023年のThe World’s 50 Best Hotelsで1位に輝いたこのホテルの存在を知り、以来、Instagramなどで調べてはぜひ訪れたいと思い続けていました。
この邸宅が建てられたのは1787年。教皇・インノケンティウス11世(Innocentius XI)がかつて所有していたとされる土地を取り込む形で、ミラノを代表する建築家 カルロ・フェリーチェ・ソアーヴェ(Carlo Felice Soave)が、コモの名家の御曹司 アンドレア・ルチーニ=パッサラクア伯爵(Count Andrea Lucini-Passalaqua)のために設計・建造しました。
当時のイタリア貴族社会には「ヴィッレッジャトゥーラ(villeggiatura)」と呼ばれる優雅な習慣が根付いていました。「ヴィラ(villa)」、つまり「別荘」に由来する言葉で、「別荘での生活や滞在」を意味します。暑い夏の間、都市の館を離れ、田園や湖畔、海辺の別邸で過ごしながら、客人との社交、自然と調和した生活様式、都市にはない穏やかな時間を楽しむ—— 古代ローマに起源を持つ季節限定の移住生活は、ルネサンス期に復興し、このヴィラが建てられた頃に最も洗練された形で花開きました。コモ湖畔はその代表地であり、その精神は現代のパッサラクアにも受け継がれ、稀有な滞在体験を演出する思想的基盤となっています。
初代の後を継いだアレッサンドロ伯爵(Count Alessandro)は、作曲家 ヴィンチェンツォ・ベッリーニ(Vincenzo Bellini)の友人であり、パトロンでもありました。1831年、このヴィラに滞在したベッリーニはオペラ「夢遊病の女(La Sonnambula)」を書き上げたと伝わります。1890年を最後にパッサラクア家の手を離れたこの邸宅は、複数のオーナーによって所有され、その間にはナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)やウィンストン・チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer Churchill)も、この地を訪れたとも伝えられています。この建物は、貴族、芸術家、政治家が集う知的サロンとしての役割を、長い歴史のなかで担い続けてきたことがうかがえます。
歴史ある建物に新しい命を吹き込んだのは、同じコモ湖畔で「グランド・ホテル・トレメッツォ(Grand Hotel Tremezzo)」を経営するデ・サンティス家(De Santis Family)です。2018年のサザビーズオークションで落札後、約3年を掛けた大規模な修復を経て、2022年6月、ホテルとして開業しました。リノベーションを指揮したヴァレンティーナ・デ・サンティス(Valentina De Santis)の審美眼は細部にまで行き届き、邸宅に宿る魂を尊重しながら、深みある贅沢感をゲストへ届ける体験空間を創り上げました。開業からわずか1年でThe World’s 50 Best Hotelsのトップを獲得してしまうのですから、その慧眼には驚くばかりです。
パッサラクアのゲストルームは、メインとなる「ヴィラ」、厩舎を改装した「パラッツ」、湖畔に佇む「カーサ・アル・ラーゴ(「湖の家」の意味)」の3棟で構成され、合計してもわずか24室というゆとりあるプランニングです。インテリアデザインを担当したのはBAMO。3年かけた改修工事の過程で、デザインチームは数世紀前の数々の意匠を発見。精緻に描かれた天井画、軋む寄木細工の床、フレスコ画で彩られたサロン、草花の模様が施されたテラゾー(人造大理石)などがホテルデザインの指針となりました。パッサラクアの24室のスイートはそれぞれが独自の雰囲気、色彩、素材感を持ち、まるで別世界のような空間。一つとして同じ部屋がないのも、コンパクトなブティックホテルならではの特徴です。アンティーク家具、アート、調度品、大理石、シャンデリア、壁紙、銀食器—— あらゆるものに、オーナーの並々ならぬこだわりを感じられます。
2024年3月からパッサラクアの厨房を率いるのは、シェフとして成功を収めてきたヴィヴィアーナ・ヴァレーゼ(Viviana Varese)。彼女が掲げるのが「グランド・ヴィラ・キュイジーヌ(Grand Villa Cuisine)」というコンセプト。「イタリアの友人の家に滞在しているように、この国の活気ある食文化を体験できること」をダイニングの根本に据えています。食事はレストランに限らず、テラス、バー、庭園、ボートなど、あらゆる場所で楽しむことができ、すべてのリクエストに「イエス」と答える文化がホテル全体で徹底されています。
ヴィラを囲む7エーカー(約2.8万㎡:サッカーコート約4面分)の敷地には、バラのパーゴラ(蔓植物を絡ませる棚)、噴水、ハーブ園、オリーブ園、菜園、果樹園、睡蓮の池、レッドクレーのテニスコート、ボッチャコート、プール、温室を改装したバー、ガラス張りの屋内プールを備えたコロネード(列柱回廊)式のスパなどが配され、湖畔には専用のプライベート桟橋が延びています。これらすべてが「21世紀のヴィッレッジャトゥーラ体験」を演出する舞台装置です。敷地内を走るヴィンテージのフィアット500スピアッジーナ(この車はリゾート仕様の限定車で、ルーフもドアもない大胆なデザインです)も、旧き良きイタリアのノスタルジーを感じさせます。
歴史的建造物をリノベーションしたホテルでありながら、随所に「遊び心」が利いていて、クリエイティブの視点でも多くの学びがありました。今回は一泊しか叶わず、大変残念でした。「世界一のホテル」を訪れる際には、是非、コモ湖の壮大な景色を一望できるレイクビューのヴィラをおすすめします。ヴァレンティーナ・デ・サンティスの言う「メラヴィッリア(meraviglia:驚嘆)」を心ゆくまで堪能できるはずです。
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